『伝説の女傑 浅草ロック座の母』

「徳」にはいろいろな意味がある。
精神の修養を指す場合もあるし、神仏などの恩恵、めぐみを指す場合もある。
また、富とか財産を指す場合もあるし、生まれつき備わった天性を指す場合もある。
そんなことを総合的に考えると、本の著者であり主人公でもある齋藤智恵子さんは、浅草一、徳のあった人かもしれない。

著者は、いささか遅いが、35歳のときに踊り子としてデビューする。
しかし、初舞台からなんと2ヶ月後には、一座を率い北海道遠征し、37歳のときには蓄えたお金で佐野の劇場、翌年には仙台と上山田の劇場を購入し、44歳のときには、全国で20の劇場を経営するまでに至る。

そして、著者は昭和47年、46歳のときに、ついに浅草ストリップ劇場の発祥である名門「ロック座」の経営権を獲得する。
この本では「本丸」という章が設けられているが、もちろん「ロック座」の意味である。
著者の、そのときの思いが伝わってきそうである。

人の運命、人との縁を考えるとき、著者の「ロック座」取得は大きな意味を持つ。
著者は「ロック座」の主となって、「ロック座」の興行をストリップ1本にした。
その結果、「ロック座」の座長だった深見千三郎や兼子二郎(のちのビートきよし)は、「フランス座」に移った。
そして、その年に「フランス座」の門をたたいたのは、ビートたけしである。
ビートたけしー深見千三郎という縁はこうして生まれたのである。

だが、人と人を結ぶ縁は複雑に絡み合っていて、ビートたけしに映画『座頭市』制作を頼んだのは、他ならぬ著者であり、ビートたけしを最も愛したのも著者である。
本中に、「母の日に心を込めて”ありがとう”を贈ります」とメッセージが書かれたビートたけしから贈られた花束を背にした著者の写真が載っているが、著者の笑顔は幸せいっぱいである。
著者のことを「お母さん」とビートたけしは呼んでいた。

そして、映画『座頭市』を切り口にした縁もある。
勝新太郎が『座頭市』を制作する際に、資金が足りなくて手形保証を著者にお願いしに来た。
このお願いは、以前、勝新太郎の実兄若山富三郎が、著者にお金を借りたことと、もちろん関係がある。
著者は、こうしたことから若山富三郎と勝新太郎とも親交が厚かったのである。

 

著者が経営者として成功を納めたことは言うまでもない。
著者が気丈だったことは間違いないが、人との縁も非常に大事にしたのではないかと思えるのだ。
また、お金に対しても確固たるものを持っていたと思う。

著者は、本中でこう言っている。
「もちろん、お金は使うためにあります。でもそれは使わなきゃいけない時に必要なだけ使うということです。
(略)『ここぞ』というのは、いろんな場合があります。商売の勝負時はもちろんですし、誰かへのプレゼントかもしれません。大事なことは自分のために使わないことです。仕事のためか、誰かのために使うことです。自分のためにばかり使っている人は貯まりませんし、第一お金が回ってこないものです」

著者は、平成28年(2016年)11月11日に90歳になり、卒寿という人生の節目に、この本を書いた。
著者お気に入りの地である信州上山田のホテルで卒寿を祝う盛大な会が開かれた。
しかし、翌春、ご逝去された。
著者は生涯、人との縁を大事にし、芸人や困っている人を助け続けた人である。
心よりご冥福をお祈りしたい。

 

伝説の女傑 浅草ロック座の母から

 

 

心に残り続ける昭和のおかあさん
浅草のおかあさん

本の目次

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『伝説の女傑 浅草ロック座の母』
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