「浅草気質」については、浅草出身の文人久保田万太郎先生が『浅草風土記』の中で、『浅草繁昌記』の記述を引用し語っている。
要約すると次のとおりとなる。
「浅草には、政治家や学者、官吏がいない。政治家や学者、官吏は、明治維新になって薩長などから来た人であり、江戸趣味や江戸っ児気質を持ちあわせていない人たちが、浅草にいないのは、むしろ喜ぶべきだ」
「えっ、そんなことが内容なの?」と驚くかもしれないが、当時の浅草の人の気持ちがわかるような気がする。
浅草の人は、明治維新を迎え、あれよあれよという間に薩長などから来た人に権力の中枢を押さえられてしまったという感覚が強かったのだと思う。
しかも浅草は江戸時代以前からの街であり、浅草の人たちにはプライドもあったから、なおさらやるせない気持ちだったと思う。
こんな状況で、浅草の人は何を重視しなければならなかったか、ということである。
要約した文章の中にキーワードがある。「江戸趣味」や「江戸っ児気質」であり、『浅草繁昌記』の他の箇所には、「たしかに彼らには学問や財産、手腕、官職はすぐれているかもしれないが、肌合といい趣味といい、純然に田舎者ではないか」という記述もあることから、「肌合い」でもある。
浅草の人たちは、江戸時代から続く人の肌合いや生き方としての趣味を重視したのだと思う。
ここで、政治家や学者、官吏は、どういう人かということも考えてみる必要がある。
この人たちをストレートに言えば、地位を手に入れた人である。自分の望むものを求め、実現した人とも言える。
浅草の人たちは、権力者に皮肉のようなものを持っていたから、ストレートに望むものを手にする人より、自分の心の内にあるものを口に出さず、人のことを思いやる人を好いていったのではないかと思えるのだ。
そんな浅草気質が、自分が好きなものは、相手も好きだと考え、相手に譲ろうという「しぐさ」に、自分が欲しいものがあっても、口に出さない「しぐさ」につながっていったのではないかと思える。
『浅草のおかあさん』
第27話 浅草気質 から
『浅草繁昌記』(明治43年発行) 冒頭に浅草気質が書かれている。
国会図書館インターネット公開本から
心に残り続ける昭和のおかあさん
『浅草のおかあさん』