学校の俳句の宿題に、この句を頂戴した浅草っ子は多い。この句は作者不詳のまま浅草で広まっていったが、この句の作者は「浅草のおかあさん」である。
「浅草のおかあさん」が作った句をよむと、写実的である。この句の情景を想像できる。
ふと、寒々とした庭の隅にある南天の赤い実が目にとまる。こんな寒い日に赤い実をつける生命への気づきであり、驚きであり、感謝でもある。
小鳥たちも赤い実に気づき、寄ってきて、チュンチュンと鳴きながら枝から枝へ小刻みに移動している。
小鳥の姿から、冬の日の平穏といったものも感じ取れる。
この句は、浅草のおかあさんが篠ノ井の高等女学校を受験したときに、「南天」という句題で出された問題に対する、浅草のおかあさんの答えだった。
この景色は実際にあった。浅草のおかあさんの長野の実家は代々松代藩に仕えていたこともあり、庭には築山もあり、南天の木もあったのである。
この句を思うと、なぜか切なくなる。「浅草のおかあさん」が急に遠い世界に行ってしまったような感覚になる。
女学校の入学試験でこんな句を作れたから遠く行ってしまったのではない。浅草のおかあさんならこんな句を作れたと思うから遠くに行ってしまったのだ。
『浅草のおかあさん』
第16話 南天や赤きに集う小鳥かな から
「浅草のおかあさん」が作った句は浅草中に広まっていった。
心に残り続ける昭和のおかあさん
『浅草のおかあさん』
第16話 南天や赤きに集う小鳥かな