久保田万太郎は生粋の浅草生まれの作家として知られている。
同氏は小説家というよりも、もっとフィールドが広く、俳人、劇作家、演出家でもある。
慶應義塾大学文学部に進んだとことが、運命を決定づけた。
教授に「三田文学」を創刊した永井荷風がいたからである。同氏は小説『朝顔』、戯曲『遊戯』を「三田文学」に発表し、三田派の作家となっていく。
さて、『浅草風土記』だが、風土記は歴史や文物を記した地誌だということを頭に入れておかなければならない。
この本にはおびただしい数の店の名前や光景が出てくるが、浅草のあの辺、この辺がわかっていないと、まったくわからない。
もう一つ、考えなくてはならないのは、時代である。
この本に描かれている光景は、主に昭和2年~昭和7年頃の浅草である。
本の中の「雷門以北」の執筆は昭和2年だから、著者39歳(著者は明治22年生まれ)の作ということに着目する必要がある。
そのときの浅草の光景はどのようなものだったのか考える必要がある。
それは、関東大震災後の変わり果てた浅草の姿だったのではないだろうか。
著者が、田原町から馬道の浅草小学校に通ったときの光景とはだいぶ異なっていたはずである。
だから、当時を偲び、万感の思いがあったと思う。
この本のちょっと違った読み方もある。
それは、浅草の老舗の昔の姿は、どうだったかということである。
この本には、「ちんや」「中清」「川松」「松喜」「梅園」「大黒屋」「やっこ」など当時からあった店がふんだんに載っている。
老舗の店主たちが語る姿と、ちょっと違っているところが、おもしろい。
『浅草風土記 (中公文庫)』から
心に残り続ける昭和のおかあさん
『浅草のおかあさん』
『浅草風土記』