『浅草底流記』

昭和5年日本の演歌師の草分である添田啞蝉坊が書いた本である。

浅草の情景を、時間軸で、はたまた空から見下ろしたかのように書かれている。

そこには生の浅草がある。浅草の底を流れているものがある。

いまからすれば、信じられないような情景だが、昭和40年代までの浅草を知っている人は、どこか似たようなものを見たのではないだろうか?

 

『浅草底流記』扉
国会図書館インターネット公開本より

 

著者は本のなかで、浅草のことを次のように言う。

浅草には、あらゆる物が生のまま投り出されている。人間の色々な欲望が、裸のままで躍っている。
………
浅草は万人の浅草である。
誰もがハラワタまでさらけ出す安息地帯である。
………
「浅草」は断然「浅草」でなくてはならない。浅草の現状は、その「浅草」を振り捨てようとして、自ら危機を招いているのではないか。平明であり過ぎる。澄明であろうとする。もっと「影」を持つのだ。包容力を拡げるのだ。
浅草よ、甦れ!
バカ面をして笑える浅草を取り戻すのだ。

浅草には外向きの顔と、浅草自身が持っている顔がある。
二つの顔を持っているのが浅草なのだ。
だから奥深い。
そして、いつの時代も浅草の原点のようなものに惹かれる人がいる。
昭和5年当時の著者もそうであり、私もその一人だ。
本には、観音の由来、仲見世の沿革なども載っているので、浅草を知りたい人には参考になる。

 

挿絵(音羽座の楽屋)
木村時子がいかにスターだったのかわかる。

 

弁天山にある「添田啞蝉坊碑・添田知道筆塚」

 

『浅草底流記』の原本は入手しづらいですが、
ルビ付きの電子書籍で読むことができます。価格も安いです。

パラルビ 浅草底流記(焚書復刊コレクション第2巻)
(総ルビの電子書籍もあります)

スマホで読む方法

 

 

心に残り続ける昭和のおかあさん
浅草のおかあさん

本の目次

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『浅草底流記』
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