著者は巻末で「土地の歳月に比べれば一人の記憶は、ほんとうに短い間のことである。それも書き残す人間がいなければ、見る見る闇に消えていく。幸い浅草は、ほぼ連続して、書き手を得てきている」と述べている。
この本は、さまざまな人の浅草の記憶を集めたものである。
年代もさまざまだから、あたかもリレーのようにつながっていく。
リレーのようにつながっていくから、それは土地の記憶ということになる。秀逸な本のタイトルである。
浅草を知る上で欠かせない本である。
幕末~明治、明治~大正、戦前戦後の浅草の記憶をさまざまな人が描いている。
その人たちは、浅草の記憶を本や雑誌、新聞などに残していた。
いくつかの人の浅草の記憶を紹介しておきたい。
「金龍山浅草寺」 寺門静軒(儒学者・随筆家)(記載年月 天保三年・1832年)
寺門静軒はかの有名な『江戸繁昌記』を書いた人である。当然と言えるが、その『江戸繁昌記』に「金龍山浅草寺(浅草観音)のこと」と紹介している。
「名高かった店などの印象」 高村光雲(彫刻家)(昭和四年・1929年)
久米平内について、かなり詳しく紹介している。
「新門辰五郎」 矢田挿雲(新聞記者・作家)(大正九ー十二年)
新門辰五郎について書かれている最も詳しい記事の一つではないだろうか。
「ラ・サクラ」 ピエール・ロチ(フランス海軍将校)(1889年)
外国の人が見た観音さま内部の描写が興味深い。
「浅草十二階の眺望」 田山花袋(小説家)(大正十二年・1923年)
関東大震災で崩れてしまった凌雲閣だが、遠景まで一望できたことがよくわかる。
「米久の晩餐」 高村光太郎 (大正十一年・1922年)
千束にある有名な、すき焼きや「米久」の光景。この詩は他の本でも紹介されることが多い。
六区展望(『浅草底流記』より)添田啞蝉坊 (昭和五年・1930年)
「浅草は論理の世界ではない。実行の世界である。具体の境地である」と同氏は言う。
「大ジメ師(香具師の親分のような存在)の漫談」「路傍のキンケン奨励」がおもしろい。
「浅草」 川端康成 (昭和五年・1930年)
同氏は「浅草には一流のものが何一つない」と言う。
実は、ここが浅草の魅力だと私は思う。この部分が、浅草ファンにはたまらないのである。
また、「人々が階級を忘れ、はらわたをさらけ出すほどに、人間の渦巻きである。浅草には論理がなく、実行がある。分析など及びもつかない」と言う。添田啞蝉坊と同じようなことをいっていることが興味深い。
「浅草悲哀」(あさくさエレジー) サトウハチロー (昭和六年・1931年)
「浅草の不良少年」サトウハチロー氏の詩である。「うはべは笑って心で泣いて あたしや悲しい浅草ムスメ」明るく振る舞う浅草ムスメの本当の姿である。
サトウハチローだから、その気持ちがわかるのだろう。
「紅団のあのころ」 望月優子 (昭和30年・1955年)
同氏は、なんと川端康成氏の『浅草紅団』の舞台となったカジノ・フォーリーのレヴューに出ていたのだ。
川端康成氏はカジノ・フォーリーの楽屋の常連で、「万盛庵」に連れて行ってもらったこと、自宅に泊まりに行ったことが記されている。
心に残り続ける昭和のおかあさん
『浅草のおかあさん』