浅草のおかあさんたち行きつけの「松喜」の謎

浅草のおかあさんたちが大晦日になると一時間も並ぶ店。

家族に嬉しいこと、悲しいこと、悔しいことがあったとき、おかあさんたちが買いに行く店。

そして私たちが生まれたときからあった店。

それが浅草の老舗「松喜」だ。

ところが浅草の案内本にも、著述家が書いた本にも、その名を目にすることがない。

浅草の不思議である。

その謎に迫ってみたい。

 


大晦日恒例の「松喜」を囲む人の列

この不思議について、浅草の人は「なぜだろうね」とみんな言う。

じつは、私もよくわからないのだ。

そこで頭を振り絞って考えてみた。したがって推測である。

まず、なぜ浅草の案内本に載っていないかということだが、そこで食べる店ではないからではないだろうか。

「松喜」はあくまでも肉を売る店だからである。

だが、かつて2Fでステーキハウスのようなものが営業されていたことが、うっすらと記憶にある。

次に、なぜ著述家の文章のなかにないかということだ。

これも、食べる店ではないということが多分に影響していると思う。

そして肉を買うということを考えてみると、ほとんどの場合、住んでいる場所で食べるためである。

浅草で生まれ、育った著述家でない限り、「松喜」の肉を買うということがなかったのではないかと思えてくるのだ。

これが私がたどり着いた結論である。

だが、浅草で生まれ、育った人にとっては、「松喜」は自分と一体となった存在だ。

 

そこで、「松喜」に対する浅草の人の気持ちを『浅草のおかあさん』のなかで、次のように表現した。

「松喜」の肉で締める大晦日

大晦日の浅草は賑やかで華やかである。昼から「雷門」の大提灯の前は人でごった返し、その黒山は年賀の飾りつけを済ませた仲見世へと続く。一年の御礼とひと足早い初詣気分を味わいたいのだろう。

だが、「雷門」から、通りの向かいを見ると、長い列が横丁に入り込んでまで続いている店がある。

精肉店の「松喜」だ。

列に並ぶ人を見ると、いかにも普段着といった格好をしている。それもそのはず、浅草の人が大晦日と正月に家で食べるすき焼きの肉を買っている姿だからだ。

列に並んでいる人たちは、ガラス越しに肉が見える位置までくると、口々に「2キロ!」「5キロ!」と声を出している。

「えっ、2キロ?」「なに? 5キロ」と思うかもしれないが、大晦日の「松喜」の前では、そんなキロ数はごく自然に聞こえる。

私の家も、正月三が日ともすき焼きだった。もちろんおせち料理も出るが、メインはあくまでもすき焼きだ。

お金を使うときは、パッと使って豪勢にやる。そんな浅草が大好きだが、私は、やっと「松喜」の肉の意味合いがわかってきた。

商売をやっていて、大晦日までたどり着くことは、いかにたいへんなものかということに気づいたからである。

サラリーマンなどは、ふざけ半分で、ボーナスがちょっと減ると、「これじゃ年を越せない」などと嘆くが、商売屋にとって年を越せるかどうかということは、まさに生きるか死ぬかといった意味がある。

「松喜」の大晦日の肉には、「この日まで来られた」という自分たちへの労いと、「来年も商売を続けられますように」という願いがある。

「浅草のおかあさん」も毎年、大晦日に、「松喜」の肉を買う列に加わった一人である。

普段の買い物はお手伝いのカッチャンに任せていたが、この日ばかりは自分にけじめをつけるために並んだ。

浅草の人たちが驚いたのは、あの事件があった年の大晦日にも、浅草のおかあさんが何もなかったかのように並んでいたことだ。

私は、歳をとるにつれ、少しずつ世の中の仕組みのようなものもわかってきた。

一年を通してみれば、すべてが順調だった、うまくいった、何事もなかったということなど、ありえないということである。

そこには、かならず苦しかったことがあり、泣きたくなることだってあり、投げ出したくなるときだってある。

それが人生となると、なおさらである。かならず浮いたときもあれば沈んだときもある。だけど、どんな場合でも、前を向いて進んでいかなければならない。

浅草の店とて同じである。長年、商売を続けていけるなんてことは至難のわざに等しい。

不本意にも店をたたまなければならないときだってある。そんなときでも、前を向いて歩いていかなければならない。

だが、浅草の男たちはつくづく幸せ者である。

おかあさんたちがいるからだ。

浅草の亭主たちも「おれは、もうだめだ」と思うときばかりだと思う。

そんな亭主の前に、大晦日、おかあさんたちはひと言も言わず、すき焼きなべを置いてくれる。

そこには寒風の中、一時間以上も並んで買った「松喜」の肉が入っている。

おかあさんたちは、おまえさんに頑張ってもらいたいんだ。おまえさんなら、かならずできると心の底から思っているんだ。

それが、なんだい。息を呑み込んでしまって、「かあちゃん、ありがとうよ」のひとつも言えないじゃないか。浅草の男たちは大ばか者だ。

 

心に残り続ける昭和のおかあさん
浅草のおかあさん

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