「浅草のおかあさん」のことを知るうえで、浅草にいるおかあさんたちの役割を考える必要がある。
それは、浅草にいる亭主たちの特徴を知ることでもある。
浅草は商売の街である。だから浅草の男衆はさぞかし愛想がいいかと思う。実際はまったく逆である。きわめて愛想が悪い。
天ぷらを揚げる主人も、鰻をパタパタ団扇ではたき焼く主人も、客が入ると「らっしゃい」とは言うものの、顔を上げるわけでもなく黙々と仕事を続けている。そんな姿は不機嫌そうに見える。
仲見世などにある店屋の主人はもっと愛想が悪い。女房が「いらっしゃい」と言うのを聞いても、黙ったまま店の奥から一歩も動こうとしない。
浅草を人情の街と期待した人は、そんな姿を見て、自分が嫌われたのではないかと思う。
それでは、浅草の旦那衆は本当に愛想が悪いのかといえば、どちらとも言えない。家でもぶすっとして横の棒を縦にもしない旦那もいれば、店を一歩出ると、池上彰顔負けの時事解説を鉄砲水のように展開する旦那もいる。
そんな浅草の旦那衆を見て、確実に言えることがある。
旦那衆に店を任せっ放しにすれば、店は傾くということである。
いくら職人の味を売ったとしても、いくら伝統の逸品を提供したとしても、商売はお客さま相手に成り立っている。浅草の店はなんだかんだ言っても、サービス産業に属しているからである。
ただ、浅草の食べ物屋の主人を弁護するために言わせてもらえば、浅草の食べ物屋の主人の仕事への集中は半端ではない。仕事に没頭しているから客に目が行かない。見方を変えれば、このことが浅草の伝統の味を守り抜いていることになる。
しかし、世の中はうまくできたもので、ここに老若は入り乱れるが、浅草小町たちがいる。浅草小町は客と主人の間を仲介する。
浅草小町の仲介はひと味違う。主人の気持ちを損ねないように、しかも自尊心を煽るような形で客の要望を伝える。
たとえば、食べ物屋だったら、客の中にはどうしてもある食材が苦手という人がいる。代表的なものはネギである。
これを、お客から直接主人に伝えると、「そんなことを言うなら、出ていけ」ということになる。実際、そうして店をつまみ出された客は多い。しかし、ここに浅草小町が入ると話は変わってくる。
浅草小町は頭がいいから、「ねぇ、おまえさんなら、こんなことできるわよね」といった声のニュアンスで、ちょっと旦那の目を見て伝える。
それを聞いた旦那は返答しない。無言は浅草では承認である。浅草っ子は恥ずかしがり屋だから自分の女房にさえ「わかった」と言えない。
その後に女房の手に渡った料理を見ると、客の要望を完璧に充たす形で仕上がっている。浅草小町の存在は大きいのである。
企業には、よく「すべてはお客さまのために」などと書かれた標語が壁に貼ってある。私はそんな貼り紙を見るたびに、つくづく下手だと思う。そんな貼り紙を見た従業員は「おれたちのことより、お客さま優先なんだ」と体で感じ取ってしまう。浅草小町のように、サービスを提供する側のプライドもくすぐらなくてはいけないのである。
『浅草のおかあさん』
第2話 浅草の商売はおかあさんたちが支えている から
心に残り続ける昭和のおかあさん
『浅草のおかあさん』