隅田川に架かる橋と川面を見つめた作家は多い。
川面は、見る人により、見る時代によってまったく違って見える。
いまの川面を見つめている人もいれば、過ぎ去った日の川面を見つめている人もいる。
橋の上に立つと、さびしさと切なさを上塗りするような感覚になる人もいる。
「浅草のおかあさん」もその一人だった。
長野から浅草に嫁いできた「浅草のおかあさん」には頼れる人がいた。隅田川を渡った本所緑町に一番上のおにいさんが住んでいた。
本所のおにいさんは九人兄弟の一番上であり、浅草のおかあさんは一番下だったから、兄というよりは父のような存在だった。
長野から遠く隔たった地で、九人兄弟の一番上と一番下が隅田川をはさんで住んでいるということは、運命のいたずらとしか言いようがない。この二人に対して、神さまが結びつけた縁はそれほど強かったのかもしれない。
だが、その縁は長くは続かなかった。
三月十日の東京大空襲の夜、おにいさんの人格があだとなった。町内会長だったおにいさんは町内の人を誘導し、すべての人の避難を見届けてから逃げた。そのときは一面火の海で逃げるには手遅れだった。おにいさんを最後に立川あたりで見たという人がいた。
両国橋付近には、隅田川に注いでいる水路のような川がある。その場所が立川だった。おにいさんはその川に飛び込んだのだろう。
おにいさんの身元が判明したのは、終戦後六年も経ってからである。「本所区緑町」と国民服に付いていた名札を、「本郷区」と読み間違えられていたことからわからないでいた。遺体は隅田川を流れて下り、芝浦の海岸で発見されたという。
「浅草のおかあさん」は遺骨を前に涙を見せなかった。
浅草のおかあさんは人前で涙を見せる人ではなかったが、このときも、こらえ、事実を受けいれた。
浅草のおかあさんは、この戦争で頼りにしていた本所のおにいさんも、一番仲がよかった満州の建国大学に行っていたおにいさんも失ってしまった。
それは、縁もゆかりもない浅草の地で、一人で生きていかなければならないことを意味していた。
『浅草のおかあさん』
第11話 それぞれの隅田川 から
「浅草のおかあさん」は橋の上に立つと、さびしさと切なさを上塗りするような感覚になった。
心に残り続ける昭和のおかあさん
『浅草のおかあさん』